大字 佳例川の歴史
国分・隼人平野や福山の地がまだ海の頃、佳例川の地ではすでに人間の営みが始まっていた。佳例川の「一本松遺跡」など、近年旧石器・縄文時代の遺構や遺物が続々と発見されている。国分市黒石岳付近より、比曽木野・佳例川の山地は、豊かな照葉樹林帯と原野が連続し、狩猟文化の適地であったことが想像出来る。また、山地が分水嶺を形成し、恵まれた水源を保有したことから、後の時代の稲作文化への移行も容易に行われたと思える。
和名抄十巻本(931〜938)に「葛例」の地名が残るが、当時は「五十戸一里」の制度があり、曽於地方は「葛例」「志摩」「阿気」「方後」「人後」の五郷であったとされる。当時の「葛例」は、佳例川から福山・敷根周辺の約50戸を包含していたとされ、「飯冨神社」の古記録から約30戸は佳例川に実在していたことが伺える。佳例川の古い呼び名は「葛例」のほか、調書文書(1276)の「加礼川」や、「嘉例」「加礼」「加礼河」などの記述も残る。
佳例川・比曽木野の地は古くから平家落人の集落とされている。萬寿3年(1026)福岡太宰府大鑑「平 季基」が、島津の庄(都城)を基点に荘園開発を始めるが、開田の波は末吉・財部郷を経て、急速に佳例川・比曽木野の地にも波及したと思える。「平 季基」は荘園開発に先駆け、都城に「神柱神社」を創建するが、わずか7年後に佳例川にも荘園開発と拘わり深い「飯富神社」が創建されている。比曽木野の「岩戸」に鎮座する「伊勢神社」も創建不祥ではあるが、御祭神が「平 清盛公」であり、平家系一門による佳例川・比曽木野への政治的勢力も浸透したと思える。一部の一族は荘園関係者として佳例川・比曽木野の地に土着した可能性もある。文冶元年(1185)平家の没落により、落人達はこれまでの所縁の地を求め、佳例川・比曽木野に落ち延びて来たとされ、家系的にも平家一門とされる家が多くある。また、南北朝の争乱で大友氏に敗れた菊池氏の末孫や、農民に身を隠し武士を捨てた一族など、落人の集落としての息吹が色濃く感じ取れる。
建冶2年(1276)の「調書文書」によると、佳例川は当時の廻村(今の福山)とは、別々に独立していたと思われ、荘園との拘わり合いから財部・都城圏域との密接な関係が伺い取れる。後の三州平定の争いで、島津氏と肝属氏が廻城の攻防で戦うが、佳例川・比曽木野の郷士は参加しておらず、源氏色の強い島津氏・廻氏には非協力的であったと思われる。当時、「平 季基」の娘婿「伴 兼貞」の嫡男「伴 兼俊」は、「肝属太郎」と称し、肝属郡を領していたが、佳例川・比曽木野の郷士達は平家色の強い肝属氏に対し、弓を引くことは出来るはずもなく、また戦いに加担しなかったのは、当時の島津氏の勢いを恐れ、静観したとも思える。時代は島津氏の三州統一と移り、天正8年(1580)の福山牧の設置に伴い、廻村と同様に薩摩藩の政治的支配地へと移って行く。
長い幕政時代の中、佳例川・比曽木野の地にも、福山牧や狩猟・山見回り役などの使命を受けた島津一門の武士達が定着するようになり、次第に同化され忠勤を励むようになる。